写真集「おおがたの記憶」
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干拓前後の八郎潟と、現在の大潟村の姿を活写した写真集「おおがたの記憶」(カッパプラン発行)がこのほど発売された。撮影したのは秋田市の写真作家川辺信康さん(71)=同市旭南2-6-4。川辺さんは「周辺住民が恩恵を受けた潟と、さまざまな人の思いが交錯して誕生した村の姿を知ってほしい」と話している。
川辺さんは、国内第2の水域面積を誇った干拓前の八郎潟と、干拓によってコメの生産地に姿を変えた村の現在までの姿を46年にわたって克明に写してきた。干陸されたばかりの潟を撮影する際、ヘドロにはまってカメラを落としたり、結氷する潟上で撮影中に氷が割れて命からがら岸にたどり着いたこともあったという。
「おおがたの記憶」は潟と村の風景を追い続けてきた川辺さんの作品の集大成。写真集では、帆を上げて引き網とのバランスを取りながら魚を追い求めた「うたせ船」、八郎潟の三倉鼻から一望した干拓前の潟、ヘドロと苦闘する入植者の姿、菜の花が咲き誇る風景など潟と村のさまざまな姿をモノクロとカラーの計141枚を掲載している。
写真集はA4版、140ページ、3千円。現在、同村のサンルーラル大潟、潟の湯、村特産品センターで発売している。5月以降は県内の主な書店で発売する予定。
また写真集に掲載されている全作品の拡大版が、同村にあるあきたこまち生産者協会のピクニックハウスに展示されている。
不死鳥の干拓計画、夢が現実へ
八郎潟干拓の夢は、江戸時代、新田開発に半生を賭けた渡部斧松が八郎潟疎水案を計画してから数えて160余年もの間、人々の胸にあたためられてきた。
文明開化の明治期、国家的構想をもちはじめた大正・昭和期になっても、幾度となく計画されたが、実現には至らず、夢のまま過ぎてきた。
当時の毎日新聞には、八郎潟の干拓問題は不死鳥のようなものだ、と書いている。
昭和26年(1951)9月に対日講和条約が結ばれ、ようやく独立国に復活した日本は、経済的自立を強く要請され、食糧増産5ヶ年計画が立てられた。農林省はその一環として、懸案の八郎潟干拓を実施するため、昭和27年(1952)7月、八郎潟干拓調査事務所を設置、まさに「不死鳥」のごとく蘇ったのである。
八郎潟新農村建設事業団史には、
「偉大な夢であった。長い長い歴史を持った夢であった。そういう夢を持ち得た人間が、それを現実化しようとした幾多の先人の意思を引き継ぎ、あらゆる障害を克服した知恵と技術と努力の結晶が、いま、今世紀最大の事業といわしめた八郎潟干拓を達成せしめたのである。
この実現を願って、この大事業に参加した直接間接の関係者は、おそらく何十万の数にのぼるであろう。その人々の胸の中には、もろもろの感慨をふくめて゛人間万歳゛の叫びが渦巻いているのではなかろうか。
・・・それにしても、決して平坦な道ではなかった」
この最後の言葉「それにしても、決して平坦な道ではなかった」という言葉に、20世紀最大の大事業と言われる八郎潟干拓の苦闘と歓喜の歴史が隠されている。
八郎潟干拓の是非論を巡る技術者の公開討論会を傍聴した小畑知事は、回顧録の中で次のように記している。
「八郎潟には、大小無数の湧水があり、干拓は技術的に困難であると主張する大橋博士と、近代農業土木によってその克服は可能であると主張する狩野博士の対決を、宮本武蔵と佐々木小次郎の試合でもみるような気持ちで、傍聴したものである」
八郎潟干拓は、日本のトップを走る技術者の間でさえ二つに割れるほど難しいものであった。
そこで登場したのが、干拓技術の世界でトップを走るオランダのヤンセン博士である。
彼は、昭和29年(1954)3月、八郎潟の現地を視察し、そのわずか3ヵ月後にヤンセンレポート「日本の干拓に関する所見」を発表している。この報告書は、各省が招いた外国技術者の報告の中でも群を抜いた素晴らしいレポートであった。日本の技術者たちは、このヤンセンレポートを見て、八郎潟干拓の成功を確信するのである。
第二の壁は、何百年もの間、八郎潟の漁業によって生活してきた漁民たちの賛成を得ることであった。
八郎潟の実現に自分の政治生命を賭けるとまで言明した小畑知事は、漁協の代表と話し合うのではなく、3千の漁民に直接訴える行動に出た。3回目の船越小学校での思い出を次のように述懐している。
「とくに船越小学校の会場は古い体育館で、下の床だけでは入り切れず、合掌造りの梁にまで長靴をはいた漁民たちがまたがって、一語も漏らさじと聞き耳を立てているという緊迫した空気。今思い出しても、良く乗り切れることができたものと思っている」
帰り際に小畑知事は、片手を漁業組合、もう一方の片手を干拓実現のために゛バンザイ゛を叫んだのである。食料不足と貧しさに苦しみながらも、常に夢を追い続けた長い歴史と情熱は、20世紀最大の大事業に向かっていよいよスタートを切ったのである。
この20世紀最大のドラマを46年間追い続けた写真作家・川辺信康さんの写真集「おおがたの記憶」は、21世紀に語り継ぐべき貴重な記録であり、発売以来大きな反響を呼んでいる。
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外部リンク
ご協力をいただいた川辺信康さんのプロフィール
略歴
- 昭和 3年
- 秋田県男鹿市出身(秋田市在住)
- 昭和25年
- 秋田県警察本部刑事部鑑識課
- 平成元年
- 定年退職
主な写真歴
- 昭和41年
- 県視聴覚研究会へ八郎潟の教材スライド寄贈
- 男鹿半島」朝日新聞連載
- 昭和42年
- 「八郎潟風景」秋田魁新報連載
- 「男鹿・八郎潟」写真展
- 昭和44年
- 秋田農博へ「八郎潟の歩み」出展
- 昭和49年
- 「男鹿海底散歩」秋田魁新報連載
- 平成2年
- 大潟村中学校へ「大潟村誕生の歴史」写真提供
- 平成3年3月
- 「潟の記憶」出版
- 平成3年3月
- 同第2刷増版
主な写真コンテスト入賞歴
- 昭和34年
- 八郎潟写真」コンテスト推薦
- 「国土建設写真全国写真」コンクール入選
- 国際警察写真コンテスト入選
- 第26回日本写真コンテスト優秀賞
- 秋田県庁舎竣工記念写真コンクール推薦
- 昭和35年
- 「現代の日本」写真コンテスト優秀賞
- 昭和36年
- ニッコールフォトコンテスト入賞
- 昭和37~41年
- 秋田県美術展(県展)特賞、奨励賞、入選
- 昭和43年
- 「全日本毎日写真」コンテト銅賞
- 平成 4年
- 第九回秋田市文化選奨受賞
参考文献
- 「八郎潟新農村建設事業団史」(昭和51年10月1日、八郎潟新農村建設事業団)
- 「新農村建設の歩み/八郎潟新農村建設事業の記録」(八郎潟新農村建設事業団)
- 「八郎潟の研究」(八郎潟総合学術調査会、昭和40年)
- 「八郎潟新農村建設事業誌」(社団法人 農業土木学会、昭和52年)
写真集「20世紀の記録」
秋田さきがけ2000.5.30夕刊より
20世紀を1冊に凝縮した、秋田魁新報社発売の写真集「20世紀の記録」が反響を呼んでいます。
- この写真集は、共同通信社と本社など全国の地方紙各社が協力して編集したもので、新聞社や内外の通信社のカメラマンが記録した゛時代の証言゛ともいうべき貴重な写真が集められています。
- 本県からは白瀬中尉の南極探検(明治45年1月28日)、八郎潟干陸記念式典のひとこま(昭和39年9月15日、川辺信康さん撮影)、東京・渋谷駅での忠犬ハチ公が20世紀の記録として収録されたほか、昭和天皇行幸の一枚として秋田でのようすが紹介されています。
また、本県関係は「秋田の20世紀」として項目を設け、本社保存写真と年表で百年を振り返りました。 写真集は本体7000円+消費税。
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