慶長17年(1612年)当時の象潟の住民は背負いきれないほどの重税を課されており、広大な荒れ地を開田したいという思いがあったそうですが、水源がなく開田することができていませんでした。住民は協議を重ねていたものの結論が出ず、約40年もの歳月が流れました。

 そんななか、立ち上がったのが惣助です。村人たちの代表として領主に開田の請願をしていましたが、土木機械が一切無い時代ということもあり、工事は困難とみなされ不許可とされていました。しかし、惣助はあきらめず、死をかけた最後の強訴手段である誓詞状を出した結果、ようやく許可され、慶安4年(1651年)に着工となりました。

 第一期工事では、旧金浦町大竹の東の方を流れている衣川の下流と赤石川の用水路をつくって合流させ、第二期工事は、赤石川から水をひき、前川をとおり、大塩越までの水路をつくったそうです。(以下の写真は当時の惣助堰から移転や改修等を経た現在の水路の様子)

現在の惣助堰のおよその位置です。

 

水源の衣川です。
現在はコンクリートになっています。

林の中を水路が走っています。

当時は全て人力での作業であったため、大きな石や木の根っ子が支障となり大変な苦労をしました。

昔は荒れ地だった場所も惣助のおかげで米を収穫できます。

手前に見える様な石が大量に出てきたのです。

 

 土木機械がないなか雨の日も風の日も堀削作業に励み、ついには全財産を使い果たして3年がかりで通水させることができましたが、この間、惣助の妻が過労により倒れ他界してしまい、惣助も完工から数か月後には姿を消してしまったそうです。

 惣助たちのおかげでつくられた「惣助堰」と称される灌漑用水路は、衣川を水源として蚶満寺の近くに至る約8㎞の長さに及び、一般には「下の堰」、「衣川の堰」とも呼ばれ、これによって、流域110ha以上の荒れ地が、美田に生まれ変わりました。

 こうした惣助の業績を称え、昭和15年(1940年)に「惣助翁彰徳碑」が建立されました。(蚶満寺山門付近)

  

 

(参考文献:象潟町史(平成13年3月発行)、惣助おりん物語(平成30年3月発行))