写真:現在の山城堰頭首工の様子

一、はじめに

 雪解け水の突き刺すような冷たさもだいぶ和らいだ5月下旬。秋田県南部の横手市大森町本郷にある山城堰(やましろぜき)頭首工そばの堰根(せきね)小屋では毎年恒例の「堰根(せきね)祭り」が始まろうとしていました。この地域では田植えの真っ盛りですが、土地改良区の役員はこの日ばかりは自分の仕事を休みにし、朝早くから祭りの準備のために集まってきていました。辺りには雄物川で捕れた春の風物詩クキザッコ(ウグイ)を炭火で焼く香ばしい香りが漂い、タタキを作るリズミカルな音が響いています。小屋の脇を流れる山城堰は江戸時代から続くこの地域の農業を支える大堰であり、大仙市大川西根まで17km以上に及ぶ水路によっておよそ830haの水田を潤しています。

写真:堰根祭りで振る舞われる料理

二、山城堰 

 「山城堰」は、藩政期に常陸(ひたち)の国から秋田へ移封(1602)となった佐竹家の分家、佐竹東家(ひがしけ)が開削した用水路です。佐竹東家の初代義賢(よしかた)は雪深い久保田藩(秋田藩)に移らされたうえに禄高(ろくだか)を10分の1の6千石へ大幅に減ぜられ大いに落胆していたことでしょう。しかし、知行地の一つであった大森から大川西根までの雄物川西岸から出羽丘陵に挟まれた不毛の原野に雄物川の水を引き入れることで広大な田地(でんち)を開拓できる可能性に気づき、1619年には藩より開田地がすべて知行地となる「指紙開(さしがみびらき)」と称する開発許可を得ています。それ以来、四代にわたって用水路の開削を行い、完成まで58年の歳月が費やされたと記録されています。

三、義寛の代

 特に、四代義寛(よしひろ)はこの大堰を造るために生涯をかけた人物で、1664に本格的な工事に着手。12年後の1676年に苦心惨憺(くしんさんたん)の末ようやく竣工をみたもので、佐竹東家の受領名が山城守(やましろのかみ)であったことから、その名をとって「山城堰」と呼ばれるようになったようです。堰がすっかり完成したこの年の12月、義寛は52歳でこの世を去りました。

 1647年頃の石高は1229石にすぎなかったのが、山城堰が完通したことにより急速に開発が進み、1705年には4・5倍の5637石へと急増しており、これに伴い3つの村が独立し灌漑区域が5ヶ村に及んだことから別名「五ヶ村堰(ごかむらぜき)」とも呼ばれています。

 当時は技術も未熟で、しかもツルハシ、鍬やモッコというような道具しかない時代ですから、延々5里にも及ぶ開削工事の困難は想像に有り余るものがあったことでしょう。特に、雄物川をどこでせき止め、堰をどう通してくるか。測量機械の発達していない当時は、夜に提灯を灯し、その光に合わせて水平を出し、地盤の高低を割り出したと伝えられています。また、長期にわたる大事業をすべて自費で賄った東家の努力には全く頭の下がる思いがします。

四、草止めの時代

 開削当初は「草止(くさど)め」と称する土俵・木杭・柴などを使った雄物川の一部締め切りによって取水していたようですが、開発により灌漑面積が増えるにつれて、1664年には300メートルにも及ぶ川幅全部を締め切るようになり、使用された材料は土俵3万俵、杭2万本、柴2千束を主としていた記録が残っています。土俵づくりは農家に割り当てられることもあり、各農家は雪深く寒い冬の間に編んでいたようです。川の杭打ち作業は、土舟に3、4人が1組になり重さ10キロ以上もある「かけや」という道具で杭打ちするわけですが、なにしろ杭の長さが4・5メートルもあり最も難儀な仕事であったといわれています。土俵を積む作業では、裸で雪解けの冷たい川に入ることがよくあったようです。こうして約1か月位で工事は終わりますが、これほどの大変な工事にもかかわらず不思議と大きな事故などは無かったといわれています。

 また、明治時代に鉄道が敷かれるまでは全て舟、筏に頼るほか輸送手段はなかったので、雄物川を堰き止めすることには厳しい制限が加えられていました。それにもかかわらず、このように全線を締め切るようなことが許されたのは、佐竹東家が分家の中でも大きな権勢を有していたことを伺い知ることができます。

写真:昭和20年代の草止めの構造

五、堰根祭り

 とにもかくにも、毎年このような草止めの難工事を経て通水できることは大きな期待と喜びであったことでしょう。しかし、苦労の末に作った「草止め」も洪水の度毎に流失され作り直さなければならないことを考えると、灌漑期間中の通水の無事を神仏に祈願することは必然的な行いであり、これが「堰根祭り」として定着したものと考えられています。

 明治期に入って「旦那衆」と呼ばれる地主たちの組合になると、「堰根祭り」には花火も打ち上げられ、近隣の料理屋から大勢のお酌さんが集められるほど盛大に催されたようで、草止め工事の重要作業を担当していた取水口に近い本郷地区では、時ならぬお祭り騒ぎにおおいに賑わったと伝えられています。

六、番屋

 本郷には今も番屋(ばんや)と呼ばれる家があります。番屋は山城堰の役所だったところで、年貢や用水堰の重要書類が保管されていました。そのため警備も厳重で、常に槍をたてかけ、いざという時のために用意していたということです。また日記には藩主義和(よしまさ)公が鷹狩の際に立ち寄ったという記録も残されています。

 16代義寿(よしひさ)の代になると廃藩置県によって佐竹東家も浪々の身になってしまいます。生活に困窮した義寿は明治16年、200数十年にわたり労苦を共にしてきた山城堰の番屋に居を定め、亡くなるまでここで過ごしました。

写真:土地改良区事務所には義寿の書が掛けられている

七、時代とともに

 戦後になると草止めに使用する材料の入手が困難となり、次第に遠方に求めざるを得ない状況になったことや、9月になれば撤去しなければならないこと。また、水路の老朽化がひどく漏水などのための被害も大きくなってきたことなどから、昭和27年、県営かんがい排水事業としてコンクリート製の頭首工及び幹線用水路の改修工事に着手されたことで、300年も続いた草止め工事もその姿を消し、近代的な施設へと移り変わっていきました。

八、おわりに 

 しかしながら、通水の万全を願う気持ちは今も同じです。佐竹東家が造り、それを大切に守り続けてきた先人たちの苦労があったからこそ、今もなお地域農業を支える大動脈となっています。そして、山城堰の水の有難さを再確認する祭りとして「堰根祭り」は今も受け継がれているのです。

 「農村振興」平成27年1月号(全国農村振興技術連盟)にて平鹿地域振興局管内にある土地改良区の歴史について掲載されました。

 今回掲載されたのは、山城水系土地改良区 職員 太田 剛史 氏が執筆した「山城堰の歴史」という題目で、灌漑期間中に行っていた通水作業の歴史的工法や、その地域の伝統ある祭り「堰根祭り」等について記載されています。

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