「あきたレビュー大賞2024」では、秋田県内に在住の方又は勤務・通学する方を対象に「その本を読んでみたい」と思わせる書評を広く募集し、応募された作品の中から最優秀賞と優秀賞を決定しました。
入賞された方々及び入賞作品をご紹介します。
入賞者及び入賞作品(敬称略)
最優秀賞
冨樫 由美子(秋田市)
書評題名
「食べることは、生きること」
書評対象図書名
くどう れいん 著『わたしを空腹にしないほうがいい 改訂版』(BOOKNERD)

レビュー
お腹をすかせて読んではいけない。いや、お腹をすかせて読んでほしい。(どっちだ!)
短歌の歌集を含め多数の著書を持ち、小説『氷柱の声』が芥川賞候補にもなった盛岡市在住作家の、デビュー作ともいえる一冊だ。
食に関する小さな文章、日付がついているから日記ともよべる小さなエッセイの各タイトルがすべて俳句になっている。その俳句がまたいい。タイトルだけ読んで句集として楽しんでもいい。いやだめだ。ぜひとも文章を味わってほしい。(どっちだ!)
たとえば6月24日「あぢさゐや忘却は巨大なひかり」では、認知症により作者の名前さえも曖昧になってしまった祖母が、ラディッシュの酢漬けの作り方をしっかり覚えていた、というエピソードがせつなくもユーモアをまじえて綴(つづ)られている。「忘却の巨大なひかりに呑(の)みこまれたとき、それでもわたしが語りつづけることはいったい何だろう」という結びの一文からは、老いること、忘れることに対するあたたかでしたたかな受容を感じる。
このあたたかさ、したたかさは、食べることへの貪欲さから来ているのだと思う。生命力、ということもできる。食べることを楽しむことは、生きることを楽しむことだ。食べることを愛しむことは、自分を、人間を愛しむことだ。
登場する食べ物はどれも身近で、どうしようもなくおいしそうだ。料理の過程も含めて匂いや触覚まで伝わってきそうな筆致に、何度も引き込まれてしまう。
2016年6月に俳句のウェブマガジン「スピカ」に連載されたものに加筆修正し、改訂版として再編集したものだという。2016年6月まるひと月ぶんの日記と、2017年6月の日記数日ぶん、それに「おかわり対談」として毛蟹さん、橋本玲奈さんと作者が食事をしながら交わすトークがそれぞれ収録されている。
文庫サイズの厚くはない冊子だが、じゅうぶんお腹いっぱいになる。イラストもすてきだ。
ぜひ多くの人に読んでほしい。いや、すでに出会った幸運な私たちだけの宝物にしておきたい。(どっちだ!)
優秀賞
房谷 史恵(秋田市)
書評の題名
「マンホールの蓋が開くとき」
書評対象図書名
早坂 隆 著『ルーマニア・マンホール生活者たちの記録』(中公文庫)

(本書は現在電子版のみの取扱いとなっています。)
レビュー
マンホールの下に何があるのか、普段私たちは考えたりしない。なぜなら、マンホールの下にあるのは私たちが必要としないものだからだ。汚水。錆と埃まみれの配管。鼠。私たちが使い回し、垂れ流したもの。
そこに子どもが住んでいる。
ルーマニアでマンホール生活を送る子ども達と共に過ごした著者が、そこでの暮らしを綴ったのがこの本だ。
チャウシェスクによる独裁政治が貧困を生み出し、子どもを含む大量の人々が家庭や社会からはじき出され、住み処を失い、マンホールの下に居場所を求めた。もちろん地下にはトイレも風呂場も台所もない。食べ物も排泄物も混じり合った中で心身を病みながら、それでもどこにも行く場所のない子ども達と著者の交流の日々。
この話の結末に、救いはあると思うだろうか。日々の不安と絶望からシンナーや犯罪に手を出し、ますます痛めつけられていく子ども達に。生を受けた瞬間から差別され、暴力と排除の果てに瞳の輝きを失っていく子ども達に。
地下に押し込められた、私たちが必要としないもの。
そうやってマンホールに住んでいた子ども達は、ある日突然消えた。子ども達の住んでいた一帯のマンホール生活者が警察の摘発にあい、マンホールの蓋が溶接され開かなくなっていたのだ。著者は以降、交流していた子ども達とは誰一人として出会えていない。
この本は20年以上も前に出版された本だ。そんな昔に出された、日本とはなじみの薄いルーマニアという国の実情に、なぜこんなにも衝撃を受けるのか。汚物の中で歌い、笑いながら子ども達が交わした儚い約束に、こんなにも胸を打たれるのはなぜなのか。
マンホールの下には、本当は何があったの。
私たちがそれを知ることはできない。なぜなら、そこに子ども達を押し込めたのは私達だからだ。私たちの無意識が、無関心が、無知が、子ども達をそこに押し込めて、蓋をした。
この本は、マンホールの蓋を少し開けてくれる。その隙間から中を見て、そこからまたその蓋を、私たちはどうするつもりなのだろうか。
優秀賞
佐々木 駿(潟上市)
書評の題名
「これから病に臨む全ての人へ」
書評対象図書名
シッダールタ・ムカジー 著/田中 文 訳『病の皇帝「がん」に挑む』(早川書房)

(本書は文庫化改題し『がん-4000年の歴史-』として刊行されています。)
レビュー
良い本は、良い書き出しから始まる。何度読み返しても、深く心に響くような言葉から始まるものだ。しかし、この本は少々違う。表紙をめくれば数点の写真とその解説、そして献辞がまず目に入る。たったそれだけで、これから本が語ろうとしている歴史の重みに圧倒される。本文に入る以前に、これほどの存在感を示す本は稀だろう。
この本はがんの病理史であると同時に、がんと闘った人々の物語である。がんと向き合うのは、医師や研究者だけではない。患者はもとより、その友人や家族、政治家、社会活動家、スポーツ選手、俳優、作家……あらゆる年代のあらゆる職業の人々が、この闘いに参戦していく。
その闘いは、苦悩と絶望と敗北と死の歴史だ。のちに医術の神として称えられる古代エジプトの神官は、女性の乳房にできるしこりの病に為す術なく白旗を上げた。それから五千年近く経って、近代医療が外科的手法を武器に、この病に挑戦する。しかし乳房を切り取っても、がんは転移し再発してしまう。「女性の体を醜くしたくはなかった」そう願いながらも再発を防ぐ為、切除の範囲は、より深くより広くなっていく。胸の奥の大胸筋、さらには鎖骨までも切除の対象となり、術後の患者の体は恐ろしいまでに変形していく。
だが後に分かったことだが、この背筋が凍るような攻撃的な医療は、がんの根治には殆ど意味がなかった。外科的手法ではなく、化学的な薬物療法も試された。しかし、一旦はがんを寛解させても、それをあざ笑うかのようにがんはあっさり舞い戻り、戦況をひっくり返す。しかも、帰って来たがんに同じ薬は通用しない。
無限の再生力を持つように見えるがんに、医療に携わる人々は懊悩する。がんを取り巻く人々の血を吐くような苦悩は、本を通じて、確かに私達にも伝わってくる。
病の皇帝。我々自身の歪んだバージョン。人の個性を殺すもの。様々に形容されるこの「がん」という病気は一体なんなのか。がんと闘う者は、絶えず問い続けながら絶望的な闘いを続けていく。何度打ち負かされても諦めない人間の不屈の精神は、まるで神話の英雄のように崇高だ。
そして現代。数えきれないほどの失敗と犠牲の果てに、ようやく一筋の光明が見えたところで、この本は終わる。だが、がんとの闘いはまだ終わってはいない。今後、誰でもこの闘いの当事者になる可能性はある。その時に、いささか誇りを持って闘える勇気を、この本は与えてくれる。
優秀賞
石井 靖子(秋田市)
書評の題名
「すこぶる笑える日本の神話」
書評対象図書名
町田 康 著『口訳 古事記』(講談社)

レビュー
新喜劇をご覧になったことがあるだろうか。毎度おなじみのセリフとオチ。そんな「お約束」に、私たちはお腹を抱えて笑ってしまう。
イザナギとイザナミの国造り、天岩戸に隠れたアマテラス、スサノオが退治したヤマタノオロチ、日本中で祀られているヤマトタケル。本書では、なんとなく知っているけど詳しくは知らないこれらのお話の元ネタである古事記が、新喜劇さながらのイキのいい大阪弁で語られている。
古事記といえば現存する日本最古の書物という知識はあるが、文章が難しい、登場人物が多いし漢字ばかりで読みにくい、だから内容が理解できないという三重苦を抱えているので、読み通せない本ナンバーワンと言われている。その難解な物語が、町田康の独特なリズム感ある文章と「マジですか」「マジです」「いやよー」「こわいー」というセリフが何度も出てくることで作り出される「お約束」によって、とにかく笑いながら読み通せるという仕掛けになっている。
ところで、古事記にはたくさんの神様が登場するが、ここに出てくる神々は人間を救ったり導いたりはしてくれない。男の神様と女の神様は出会うなり結婚するし、スサノオは仕事もせず暴れまわっている。ウサギを助けた優しいオオクニヌシは兄達に何度も殺される。そんな現代の感覚ではNGな出来事を、本書では「なんちゅうことをさらすのか」とツッコミを入れつつも「神なので仕方ない」と納得する。そこで読者も、まあそういうものかと正しさではなく現象として受け入れてしまう。これもまた町田康が作り出した「お約束」のなせる技なのである。
およそ1300年前に記されたこの古い物語は、おそらくそれよりずっと以前から後の世代に伝えようと語り継がれてきたのだろう。しかし残念ながら言葉は変化するもので、当時の言葉は現代の私たちにはひどくわかりにくいものになってしまった。今、痛快な大阪弁で口訳として復活した古事記は、再び人から人へと伝えられる機会を得た。イザナギとイザナミが生み出したこの大地の上で、長い時を経て受け継いだこの物語を手に取り「マジですか」「マジです」「いやよー」「こわいー」と言いながら、目の前に横たわる煩わしい日常と対峙するパワーをアナーキーな神々から受けとってほしい。
優秀賞
七尾 理絵子(秋田市)
書評の題名
「それでいいんだよ」
書評対象図書名
ガブリエル・ガルシア=マルケス 著/鼓 直 訳『百年の孤独』(新潮文庫刊)

レビュー
本書のページを繰れば男たちが毎朝飲むブラック珈琲の香り、女たちが虫除けに衣装箱に入れているバジルの香りが鮮やかに立ち上る。南米コロンビアのカリブ海沿岸に住むホセ・アルカディオ・ブエンディアは妻ウルスラと共に新天地を求めて旅に出る。苦難の果てにたどり着いたマコンドという架空の地での一族六代にわたる歴史を描いたのが本書である。歴史と言っても短くかつ途方もないエピソードの集積であるが……。
マコンドは初め二十軒ほどの寒村だったが時代と共に発展してゆく。ジプシーやアラビア商人、トルコ人がやって来る。教会も娼館も出来、ついには鉄道も敷設される。米国人が来てバナナプランテーションが始まる。その間にも内戦は止むことがない。
この小説は現実と超現実が混じり合っている。伝染性の不眠症やジプシーの持ち込んだ空飛ぶ絨毯などはまだ序の口。恐ろしいほどの美貌のレメディオスは突然昇天してしまう。しかしなにしろここはマコンド。「血のように鮮やかな菖蒲の花や金色の山椒魚」が見られる「原罪以前にさかのぼる湿気と沈黙の楽園」なのだ。何が起こっても不思議ではない。
この血筋には孤独で逃避的でありながら人の先に立って活動するという二面性を持った男が時々出現する。例えばアウレリャノ大佐。内戦に身を投じて三十二回も反乱を起こし革命軍総司令官にまでなる。しかし老後はその若き日と同様故郷の工房にこもって細工物を作り続ける。男たちがこんなふうなので一族の女たちは逞しい。例えばウルスラは飴細工の商いで屋敷を増築出来るほど稼ぎ、人の道を外れた孫には容赦なく鞭を振るう。そのうえ百歳をはるかに超える長生きなのだ。
この物語には周りの思惑を気にしたり、過去を悔やんだりする者は出てこない。皆濃くくっきりと生きては死んでゆく。しかし一人一人のエピソードがあまりにも破天荒なので無常感に浸っている暇が無い。作者は自分たち一族の氏神の物語を書いたかのようでもある。そこに善悪はない。「与えられた命を全うすれば、それでいいんだよ。」という作者のメッセージがじわじわ伝わってくる。人の世には人の数だけ悩みがあるという。本書はそんな数々の悩みをありのままに肯定してくれているようだ。美しく複雑な唐草模様のようなこの物語。読み進むうちに少し心が軽くなるのを、きっとあなたも感じるだろう。
優秀賞
富橋 芙美(秋田市)
書評の題名
「ありのままでいい、わけないけど繋がりたい」
書評対象図書名
朝井 リョウ 著『正欲』(新潮社刊)

レビュー
「ほかの人が当たり前に出来ることが、どうして自分には出来ないんだろう」と思うことが多々ある。その悩みの究極を見た気がした。性的指向に関して誰にも言えない秘密を抱える、寝具店の販売員・夏月、大手食品会社に勤める佳道、ダンスサークルに所属する大学生・大也。世間が言うマイノリティにすら当てはまらない彼らは、まるで地球に留学しているような感覚で生きている。
三十代半ばとなった夏月の周囲で繰り広げられる話題は、恋愛、結婚、妊娠、出産。それらに興味があって当たり前という環境下で、当事者になり得ない夏月は、孤独も虚しさも憎悪も飼い慣らして平静を装っていた。そんな中、世間では「多様性」が謳われ始め、本来救いとなるはずのその言葉は、マジョリティ側により都合良く発信されるだけで、むしろ夏月を追い詰める。
自分に正直に、マイノリティに理解を、新しい価値観に対応して……。それが正しいと疑わず声高に叫ばれる昨今だが、自分の根の部分に悩み苦しむ夏月たちを見ると、ありのままでいいなんて簡単には言えない。礼賛される言葉の側面を考えさせられる。
中学の同級生である夏月と佳道は、同窓会をきっかけに手を組む。左手に指輪を付け、公園で二人にとってのデートをし、慣れない体勢に戸惑いながら擬似セックスを試みる。皆が当たり前にしていることを体験してみたいと望む二人がいじらしい。同じ特殊性癖を持つ者同士は、繋がることで初めて生きていたいと思えるようになり、生き抜くためのさらなる繋がりを求めSNSを開設する。
夏月たちに寄り添ったつもりで読み進めていたが、「お前らの言う理解って結局、我々まとも側の文脈に入れ込める程度の異物か確かめさせてねってことだろ」という大也の叫びで気が付いた。恐らく、自分の思考は「まとも側」のものだ。現に、大也が欲求を満たすために取る手段に対して、公然と賛同はできない。それでも、否定せず、干渉せず、ただ共に在るという「多様性」がこんなにも難しいのかと、やるせなさが募った。
物語におけるもう一つのキーワードは、序盤で綺麗事のように映っていた「繋がり」だ。しかし、夏月たちの救いとなった繋がりは、広がるにつれて世間的には厄介なものとなる。自分は夏月側と「まとも側」のどちらに立っているのか、誰もがありのままでいられる世界は本当に正しいのか。読了後はきっと誰かと語り合いたくなるはずだ。
選考委員代表 講評
心の琴線に 柴山 芳隆(作家/秋田市在住)
最優秀賞は、三人の選考委員がほぼ一致して推した作品なので比較的早い段階で決定した。ブックレビューでは、まず対象作品をしっかりと読み込んで自分のものにすることが不可欠なのだが、受賞作はそれができている。また、レビューでは、それを読んだ人が対象作品を読みたくなって書店に買いに出かけるとか図書館に借りに赴くといった行動につながるほどまで読み手の心の琴線に作用することが求められる。最優秀作はこの点でも一定のレベルに達している。
対象作を読んでいくら感動しても、その感動モードのまま筆を執ると読書感想文で終わってしまいがちである。感動をいったん鎮め、改めて冷静に原稿用紙に向かうことで完成度の高いレビューに仕上げていくようにするとよいであろう。
優秀作に五編が選ばれた。このうち、朝井リョウの『正欲』をレビューした「ありのままでいい、わけないけど繋がりたい」は最優秀賞作に迫る注目を集めた。レビューとしては赤裸々に過ぎるのではとの評が選考委員の一人から出て話題になり、最終的に委員会全体としてもそうした受け止めで落ち着いた。このレビューの書き手は、レビューよりも小説、それも私小説に向いているように感じられる。文学関係者の間でよく言われるように、銀座の真ん中で裸になれる人は私小説を試みると成功につながる可能性を秘めているものである。
一方、「すこぶる笑える日本の神話」は、近ごろ遠い存在になった『古事記』を現代感覚で口語訳した対象作品に対する好奇心を大いにくすぐるし、ノーベル賞受賞作家に挑んだ「それでいいんだよ」は、あまりシャチホコばらずにさらりと書いている点がよい。「これから病に臨む全ての人へ」は、がんとの闘いを描いた作品に触発された一編である。難しい病気の問題を分かりやすく記述しており、「マンホールの蓋が開くとき」は、日本人にはやや馴染みの薄いルーマニアという国の実情を知らせてくれる一書へのよき案内文になっている。
惜しくも賞は逸したが、「空の旅人たちと十五年~珠玉のエッセイ集として完結」「言葉の連鎖」「『彼女』について語りたい」なども各選考委員の評価が高かった。
今回から、レビュー本文に表題を施してもらったが、いたずらに長い題が多く、総じてお粗末と言わざるをえない。文題も作品の一部であり、しかも最初に読者の目に触れるものだから手を抜かないようにしてほしい。
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