「あきたレビュー大賞2022」入賞作品をご紹介します
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「あきたレビュー大賞2022」では、秋田県内に在住の方または県内所在事務所に勤務する方を対象に「その本を読んでみたい」と思わせる書評を広く募集しました。
応募された作品の中から最優秀賞と優秀賞を決定し、令和5年1月30日に表彰式を行いました。
入賞された方々および入賞作品をご紹介します。
入賞者および入賞作品(敬称略)
最優秀賞
佐貫 颯(秋田市)
書評対象作品
『四畳半神話大系』森見 登美彦 著(KADOKAWA/角川文庫)
レビュー
これはおんぼろアパート、下鴨幽水荘の四畳半に起居する「私」のお話である。大学三回生の春、二年間の学生生活を経て彼は何も成し遂げていなかった。勉学や肉体的鍛錬に励むでもなく、傍らに黒髪の乙女がいるわけでもない。あるのは妙竹林な縁ばかり。
ただひたすら堂々と暮らすことだけに専念している樋口清太郎。類まれな鯨飲家で酔うと人の顔を舐めようとする羽貫さん。ラブドールを一途に愛する男前なサークル弁慶城ケ崎氏。爪を隠さない能ある鷹のごときクールな黒髪の女性の明石さん。そして、人の不幸で飯が三杯食える妖怪のような小津。いささか個性的過ぎる人物が「私」の周囲を立ち回る。
章ごとに四つの平行世界が展開され、それらの世界で「私」はそれぞれ別のサークルに所属する。四人の「私」は異なる二年間を送っており、上記で羅列した各人の性質は一人を除いて、ある「私」が知る一面に過ぎない。そして一方の「私」は一貫して全ての世界で堕落の一途を辿っていた。どの世界でも「私」はあり得べき別の人生へと可及的速やかに軌道修正しようとし、偶然にも京都木屋町の路上で占いの老婆と出会う。老婆は『コロッセオが好機の印』という謎の助言を与え、「私」は疑問を抱きながらも代金を支払うが、やがて思わぬところでその好機が訪れる。
『今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない』という言葉が作中にある。不満ある人生を送る人にとって、この言葉は今ある人生からの脱出はできないという一種の諦めの必要性を示唆しているようにも思えてしまう。しかし、悲観的になる必要はない。人生は御都合主義的でもあり、少しの思い切りさえあれば事々は都合よく、やや強引にでもめでたく幕が引かれるのである。あれほどかつての無益な学生生活を後悔していた「私」も、変わらない「私」のままで人生の好機に巡り合い、それを掴もうとする。その様を皆さんにはぜひ読んでいただきたい。
優秀賞
黒丸 拓磨(秋田市)
書評対象作品
『アフガニスタンの診療所から』中村 哲 著(筑摩書房)
レビュー
「追悼 中村哲医師」
帯に書かれたこの言葉が、書店の中を歩く私の目を引いた。
中村哲医師は1946年に福岡県で生まれた。九州大学医学部を卒業後は医師となり、1984年にはパキスタンのペシャワールへ赴任した。その後はアフガン地域の貧困層の診療などに取り組み、途上国の衛生問題や医療問題に長きにわたり携わってきたが、2019年12月4日、アフガニスタン国内で銃撃されこの世を去った。
この本では中村氏がアフガニスタンで行った医療活動や、アフガン文化圏の農村部に住む人々の暮らしについて説明されている。中村氏のアフガニスタンでの体験は、国際協力のあるべき姿を私たちに映し出す。
中村氏が尽力したのが、現地におけるらい病患者根絶のための活動である。らい病は細菌感染症の一種であり、日本ではハンセン病と呼ばれる。皮膚や末梢神経に作用する病気であり、顔面の変形や感覚障害などの症状がある。外見が変化する症状は、差別の原因となる場合もある。
中村氏は現地で多くのらい病患者と向き合った。鼻はくぼみ顔面が歪み、言葉にできないトラウマを抱えた女性。指も頭髪も失い、故郷を追い出された男性。物資の支援だけでは救うことができない、多くの患者と向き合った。
国際協力において最も必要なものは、大規模な資金援助や物資提供といった即物的なものではない。本当に必要なものは、助けたい存在の顔をそばで直接見つめ、相手が自力で立ち直るまで粘り強く手助けをしようとする心構えである。そのことを、中村氏は教えてくれる。
この事実は、多くの人と向き合いながら日々を過ごす、あらゆる人間に示唆を与える。周りに悩む人がいるならば、苦しみを分かち合うべきではないか。
「追悼 中村哲医師」
本を読み終えたときこの言葉は、帯に書かれたキャッチコピーから、誰よりも人の心を想った一人の医師を偲ぶ言葉へと変わっていた。
人助けの道標となるものを示してくれるこの本を、ぜひ手に取っていただきたい。
優秀賞
伊藤 真理(秋田市)
書評対象作品
『喜嶋先生の静かな世界』森 博嗣 著(講談社)
レビュー
理系とか文系という分類に意味があるとすれば、小説は絶対に文系の世界であると思っていた。それがこの小説によって覆された。
子どもの頃から文字を読むことが苦手だった主人公の「僕」。高校までの勉強は退屈で、興味の対象は数学と物理。大学に期待したものの、講義のつまらなさに失望。そんな「僕」の人生が、卒論で配属された研究室の喜嶋先生との出会いで大きく変わっていく。
出世したいとか、認められたいとか、そんな“普通”の人が考えることは喜嶋先生の引き出しには一切ない。昨日も今日も明日もただひたすら研究に没頭する。一方で、まさかのプロポーズもやってのける。もちろん喜嶋流だ。その後の顛末にはもっと驚かされることになるのだが……。
先輩の中村さんもかなりの変わり者だ。喜嶋先生に言わせれば「生まれながらにネジが抜けかけている」となるが、「そこが他人に対する優しさの起源になっている」と思う「僕」。2人とも喜嶋先生のピュアで無垢な“そのままさ”に共鳴する受容体を持った“同類”なのだ。研究生活で「僕」は深く考え抜くことを経験し、科学の深遠さを知っていく。
「学問には王道しかない」と喜嶋先生は言った。王道とは勇者が歩くべき清く正しい本道のこと。それは人間の美しい生き方であり、喜嶋先生の生き方そのものだと「僕」は思い至る。この場面は凛として力強く、つくづく美しい文章だと思う。
年月がたち、助教授になった「僕」は語る。「今の僕は王道から外れている。外れてしまったのはいつからだろう?」と。たたみかけるように続く自問自答がキュンと胸に迫る。なんだか泣きたくなるほど分かってしまうのだ。
「研究とは」という問い掛けは、いつの間にか読者を「生きるとは」という哲学の領域まで連れていく。文学も哲学も科学もつながっていることに気付く爽やかな衝撃とともに、人生のかみしめ方が変わる、生きることがいとおしくなる、そんな小説だ。