写真:平福穂庵筆 乳虎平福穂庵筆 乳虎 (ひらふくすいあんひつ にゅうこ)

 本作品は、明治23(1890)年の第三回内国勧業博覧会で妙技二等賞を受賞した、平福穂庵最晩年の代表作です。
 平福穂庵は、弘化元(1844)年に仙北郡角館町横町で生まれ、父太治右衛門の影響で幼少時より武村文海(たけむら ぶんかい)に師事して円山四条派の画法を学びました。16歳で京都に遊学し、故郷にあてた手紙に「予は自然を師として独往(どくおう)の決心」と書き記したように、特定の師につかずに古画の模写や風景写生に励んで画技の研鑽を積みました。この頃から穂庵の雅号を用いています。
 帰郷後も、幕末から明治にかけての大きな社会的変革の中にあって画業に励み、対象に迫る眼や実物写生による迫真性にさらに磨きをかけ、形式にとらわれた作品が多いこの時期に才気あふれる自在な筆勢をみせています。
 明治14(1881)年の第二回観古美術会に出品した「乞食図(こじきず)」で中央画壇に認められ、明治19(1886)年に上京した平福穂庵は、龍池会(りゅうちかい)から宮内省に献上される画帖の揮毫者(きごうしゃ)の一人に選ばれ、また、美術雑誌「絵画叢誌(かいがそうし)」の編集や古画の縮写にあたるなど、中央画壇においてもその卓抜な画才を発揮しました。
 平福穂庵は、明治時代前半の日本画の混乱期に近代日本画の方向性を示した先駆者の一人であり、写生を重んじるその精神は、子の平福百穂(ひらふくひゃくすい)に受け継がれていきます。そして、平福穂庵がつけた中央画壇への道筋を足掛かりに、寺崎広業(てらさきこうぎょう)や平福百穂がその才能を開花させるのです。
 本作品は、日比谷公園で展示されていた虎を一週間通い詰めて描いた入念な写生図をもとに、明治22(1889)年に病気のため帰郷した角館で構想を練り、制作されたものです。円山四条派の流れをくむ写生体で、模索の末に打ち立てた独自の画風の円熟をみることができます。精緻な筆遣いで描かれた表情や金泥(きんでい)を施した毛並みの柔らかい質感など、細部まで余すことなく描き込まれた本作品は、鋭い観察と磨かれた画技に支えられ、平福穂庵の精神性までもが表現された、格調高い作品です。

参考文献

『平福穂庵画集』 昭和58(1983)年7月5日 株式会社大日本絵画
『原色現代日本の美術1近代の胎動』 昭和55(1980)年1月10日 小学館