野上陳令は文化12年(1815)に42歳で評定奉行に昇格した際、町奉行の兼帯(兼任)を命じられている。町所(町奉行役所)は内町西側端の土手長町に南北両役所として在り、旭川越えに外町(町人町)を臨んだ。近代になって、この地に県庁や警察署が長く置かれたことも偶然ではないだろう。
文化13年(1816)2月18日に弘前藩御飛脚三浦定蔵が下刈村(現・秋田市金足)で落馬し、外町馬口労町の旅籠津軽屋で死去したとの記載がある。落馬の一因として、馬継ぎ立て時の不行き届きもあり、陳令は弘前藩町奉行へ詳細かつ迅速な報告をしている。その手際良さもあり、弘前藩町奉行からは馬継ぎ立ての不手際については不問、今後の報告も不要とする回答を得ている。この一件においても陳令の有能さが確認できる。