ロゴ:最後の鷹匠

ロゴ:The last falconry master

野沢博美写真集「鷹匠」

雪深い山峡の生業・農民鷹匠 熊鷹の調教・威と愛 孤高の鷹狩り1 
孤高の鷹狩り2 後継者誕生したが 消えた鷹匠文化
鷹匠作品・ふるさとマンガの紹介 熊鷹 青空の美しき狩人

写真:鷹と武田氏

 出羽山地に囲まれた秋田県雄勝郡羽後町上仙道桧山。
 ここで多くの鷹匠が生まれ育った。その数45人。自給自足の農業を営みながら、伝統の鷹狩りを守り続けた最後の鷹匠が武田宇市郎さん(平成4年死去、77歳)である。雪深い秋田の奥地、その厳しい自然の中で生きてきた鷹匠の人生は、人間の心を打つ何かがある。
 羽後の鷹匠は、映画や小説で全国に知られるようになった。
 今村昌平監督の「楢山節考」(58年カンヌ映画祭グランプリ受賞)では、宇市郎さんの「高槻号」が、主人公の仕留めたウサギを奪い去るシーンに出演。小説では、動物作家・藤原審爾さんが宇市郎さんをモデルに書き上げた「熊鷹 青空の美しき狩人」(昭和56年、別冊文芸春秋)がある。

 クマタカを使ってウサギ狩りを伝承する鷹匠は、近代化の波に呑まれ、戦後みるみる姿を消していった。伝統的な狩りの中でも鷹匠の場合は、後世に伝えるための条件が極端に悪かった。マタギの鉄砲に比べ、クマタカは年中養わなければならない生き物である。特殊な技能を要求される割に獲物は少なくなり、売り物にもならなくなったからである。

写真:鷹匠 武田氏
 鷹匠・武田宇市郎氏。大正4年、秋田県羽後町仙道村に生まれる。弟3人、妹5人、それに祖父母を含めて13人家族の中に育つ。父松之助さんは、かつて村でも名人と言われた鷹匠、父に連れられ16歳の時から鷹を操り始めた。
写真:鷹
 クマタカ…ワシ科に属し、国内ではイヌワシと並ぶ最強の猛禽だ。昔の武士やレジャーとして行われているタカ狩りは、ハヤブサやオオタカを使って鳥類をとる。獲物を生活の糧にしてきた仙道の鷹匠は、それよりはるかに大型のクマタカを慣らし、野ウサギやテン、タヌキなど獣類の狩りをしてきた伝統猟法だ。
写真:鷹匠を育てる会
 昭和52年2月、全国で一人しかいない伝統の鷹狩りを守ろうと「鷹匠を育てる会」が結成された。町の公民館で行われた発会式に臨んだ武田さんと高松号。
写真:捕獲申請の様子
 「郷土の伝統習俗を次代に残すために、クマタカを捕獲し育てたい」、昭和57年、武田宇市郎さん、土田一さん、育てる会事務局長の榎本勲さん、それに、町の人たちと環境庁で長官に鷹の捕獲申請を直訴したが・・・。

 写真:鷹匠の墓石

 昭和51年2月、宇市郎さんの鷹匠仲間・土田力三さんが不慮の死を遂げる。鷹匠は、全国で宇市郎さんただ一人となってしまった。鷹匠の存続を願って「鷹匠を育てる会」が結成された。
 「クマタカの捕獲が認められなければ、伝統の狩猟習俗も絶えてしまう」
 昭和57年、武田宇市郎さんと「羽後町鷹匠を育てる会」が環境庁にクマタカの「捕獲許可願」を出し、伝統保存か自然保護かで注目されたが、結局環境庁から許可が出なかった。
 昭和61年、最後の鷹匠と呼ばれた宇市郎さんは、鷹匠を廃業することを宣言。今では「熊鷹文学碑」のみが寂しく残るだけとなった。その碑にには、次のような一文が記されている。
 草も木も鳥も魚も/人もけものも虫けらも/もとは一つなり/みな地球の子 (藤原審爾 )

野沢博美写真集「鷹匠」

 ここに、秋田の山村の生活、文化、民俗をリアリティ豊かに表現した一冊の写真集がある。野沢博美写真集「鷹匠」(発行:童牛社 発売:影書房2,987円)である。
 この作品は、秋田県羽後町に住むただ一人の農民鷹匠、武田宇市郎さんとクマタカを14年の歳月をかけてカメラで追った野沢博美さんの作品である。

写真:写真集「鷹匠」の表紙

 秋田県雄勝郡羽後町上仙道に住む鷹匠武田さんが現存する唯一の鷹匠と知り、昭和52年2月に羽後町で開かれた「鷹匠を育てる会」へ出席したのが武田さんとの最初の出会いだった。昭和57年に秋田書房から「最後の鷹匠」を出版、当時の新聞には、次のように記されている。

 「野沢さんは当時、県秩父県民センター勤務だったが、冬の猟期に休暇をとって片道700キロの奥羽山中へ列車、バスを乗り継いで撮影行をしてきた。最初はコンテストの出品作ができれば、という考えだったが、武田さんと「高松号」が獲物に向かうひたむきな姿に魅せられ、大きなテーマだと自覚したという。

 武田さんの鷹狩りの一部始終はもとより、猟期外は農業で生活する武田さんを追い続け、年間3回は秋田へ。遠距離の上、公務もあって奥羽山中には3日から5日間ぐらいしか滞在できなかった。

 しかし、そのハンディも秩父人のねばり強さを発揮、一日何十キロも雪の山中を獲物を求めて歩く武田さんに密着取材。この6年間に撮った35mm白黒ネガは1万8千コマに達した。」(東京新聞埼玉版 昭和57年4月28日付け)
 
 「ワシタカ科の日本最大の猛禽・クマタカの「高槻号」を左腕にすえ入山する老鷹匠の勇姿。闘争本能を高めるため絶食状態に置かれた高槻号が鋭い目をむき飛び立つ瞬間。自宅でのタカとの睦み合い…。夏の畑仕事風景など狩りを中心に武田さんの生活を織り込んだ人とタカとの自然の語らいが聞こえてくるような写真集だ」(サンケイ新聞埼玉版 昭和57年4月30日付け)

 また、動物作家・藤原審爾さんは、写真集「最後の鷹匠」に素晴らしい序文を書いている。
「青い空を自らの世界とした、この孤高な猛禽は、あるとき地上の王者にとらえられ、人と倶に生きる道をも獲得したが、なにも人に征服されたのではない。人の愛と知とその威を、鷹たちが認めたのである。
 この愛と知と威が、すなわち鷹匠の条件なのであり、これが人と鷹との交流の、微妙な通路である。鷹匠たちはかぎりなく鷹を愛し、知を働かせ、威によって、鷹との世界をつくりあげ、大自然の理にとけこんでいく。
 鷹を飼う人はいなくはないが、わたしらは、武田宇市郎さんを、最後の鷹匠とよぶのは、愛と知と威を備えており、鷹と倶に生きることが出きるからであり、宇市郎さんが大自然の声を能く聞くことが出来る人であるからである。
 野沢さんは、ある日、鷹と宇市郎さんに胸うたれ、数年をかけてこれらの写真をとり続けた。野沢さんは、人と大自然のあるべき姿を、とりつづけたのである。
 この一冊の写真集には、たぐいまれな鷹匠と鷹との限りない深い仲が撮られているばかりでなく、大自然の声が撮られているのである。
 友よ、目を閉じ、この写真集からあふれる大自然の声々に、耳を傾けよう。」
(野沢博美写真集「最後の鷹匠」序文、 より)

 野沢さんがライフワークとして撮り続けた写真集は、鷹匠文化の灯が消えた今日、誰一人記録することのできない貴重な民俗記録であり、偉大なる山村文化の証として次の世代に語り継ぐべき唯一の遺産でもある。自然とともに生きた孤高の暮らしと文化を野沢さんの写真集を中心に紹介したい。

ご協力いただいた野沢博美さんのプロフィール

略歴

  • 1943(昭和18年) 埼玉県秩父郡皆野三沢に生まれる。
  • 1962(昭和37年) 埼玉県職員となる。写真活動開始。
  • 1967(昭和42年) 埼玉国体写真班員。
  • 1968(昭和43年) 埼玉県報道文化課勤務。
  • 1975(昭和50年) 埼玉県秩父地方県民センター広報担当
  • 1977(昭和52年) 埼玉県美術展で「鷹匠」特選
  • 1979(昭和54年) 日本農業新聞記者の写真コンテストニュース写真の部年間賞全国第1位。
  • 1979(昭和54年) 三沢の運動公園で「村の記録」「ルソン農民」青空写真展
  • 1981(昭和56年) 熊谷市八木橋デパートで「鷹匠」写真展。
  • 1982(昭和57年) 秋田県羽後町公民館で「鷹匠」写真展
  • 1987(昭和62年) 埼玉県皆野町勤労者いこいの村美の山で、「最後の鷹匠」写真展
  • 現在 ラジコンヘリコプターによる空撮を中心に写真活動を展開。

著書

  • 1982(昭和57年) 「写真集・最後の鷹匠」 秋田書房刊
  • 1984(昭和59年) 「写真集・三沢・人と風土」 現代創作社刊
  • 1990(平成 2年) 「写真集・鷹匠」 童牛社刊
  • 1992(平成 3年) 「写真、エッセイ集・おれたちは村を売らない」 宝島社刊

「武田さんを鷹匠と呼称するのも、自給自足の農業を営みながら、伝統の鷹狩りを今日まで保存伝承してきた、この素晴らしい技術と功績に感服するからである。
 私が鷹狩り撮影に執念を燃やしたのも、鷹狩りは、日本古来からの歴史的背景を含み、大型の猛禽熊鷹を調教し、雪深い大自然の中で獲物をとらえる、歴史と自然と人と鷹という、幾重にも重なった、まさにダイヤにも匹敵する、深いテーマ性こそがあったからである」(写真集「鷹匠」のあとがきより抜粋)

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