松倉堰の物語

2013年12月02日 | コンテンツ番号 4535

写真:松倉堰の水神社

 松倉堰は、雄物川の支川玉川の旧大曲市と旧中仙町の境に位置する松倉頭首工から取水し、玉川及び雄物川右岸の比較的平坦な大仙市神岡地域の水田1,427haを潤し、防火用水や流雪用水としても地域の大切な資源となっている堰で、 延長13.6kmの幹線用水路と4本の支線水路からなる総延長30kmに及ぶ堰です。 

写真:水波女神社

 頭首工はS49年に災害復旧事業で、用水路はH2年にかんがい排水事業で整備されましたが、老朽化による機能の低下があり、県営かんがい排水事業「松倉地区」(H18~H23)で更新整備と県営基幹水利施設ストックマネジメント事業「松倉堰地区」(H19~H22)で機能保全のための補修工事が行われています。
 その松倉頭首工の右岸側には、操作室に隣接して正面に水神の象徴・神の使いとされる龍の彫り物を持つ神社があります。
 この神社に関わるお話を紹介させて頂きます。
 大仙市神宮寺松倉堰土地改良区が編纂した「松倉堰沿革史の概要」や「秋田県土地改良史」によれば、松倉堰の本格的な開発は、佐竹義宣が1609年、秋田に移封された後に進めた新田開発によるもので、家老渋江内膳は、知行地であった当地域を常陸から下った金野加賀の協力を得て、玉川にかんがい用水を求め新田開発を進めたのが発端と伝えています。佐竹藩では、家臣団が開発した新田を全て家臣団の知行地とすることで開発への意欲を高め、石高を増やしたことが、「秋田県土地改良史」に確認することが出来ます。

写真:松倉堰沿革史の概要

 さて、水神についてですが、現在の位置に取水門が設置されたのは、1703年(元禄16年)とされ、苦難の末に完成した記載が「秋田県土地改良史」にあります。それは1697年(元禄10年)、当時松倉地蔵鼻にあったとされる水門が洪水で破壊され、新たな水門を現在の取水口地点に求めた工事でした。苦難の末の取水門完成に、新田の収穫を左右する水の恵みを願い、堰頭に水神を祀ったものと考えられます。
 水神は水波女命を祭神とする「水波女(みづはのめ)神社」で、ミヅハノメの「ミヅハ」は、「水走」と解して灌漑のための引き水を指したものとされています。
 そこには、もう一つの悲しい伝説がありました。それは、取水門工事が困難を極めていたため、災難を引き起こす神をなだめるため、たまたま旅をしてきた芸人「おいり」を人身御供として、ようやく完成させたとの言い伝えです。
 このことから地元では、「”おいり”を神格化し、その霊を水波女神社として祀っている」と言います。そして土地改良区では、今でも頭首工付近での、肉、卵、酒等の飲食禁止を守りながら、豊作と作業の安全を祈願しています。

写真:円満造翁作の龍

 「水波女神社」の龍の彫り物ですが、この作者は、全国的に有名な「ドンパン節」の生みの親の円満造翁(高橋市蔵)といわれています。円満造翁は、宮大工でありながら彫刻も巧みで#65378;東北の左甚五郎#12301;と呼ばれ、1868年に大仙市豊川に生まれ1945年に77歳で没しています。
 仙北管内の社寺仏閣(雲厳寺・高梨神社・南陽院・法憧寺・諏訪堂等)に仁王像や金剛力士像などの彫り物を見ることが出来ます。
 大仙市の道の駅「なかせん」の入り口には、シンボルの時計の塔がありますが、米俵に腰を掛けているお爺さんが円満造翁です。

写真:道の駅「なかせん」時計の塔

 さて、円満造翁の作とされる龍の彫り物は、どの様ないきさつで水波女神社にあるのか、土地改良区の小林事務局長に尋ねたところ、「頭首工に流れ着いたもので、立派な龍の彫り物であったことから、水の神である龍が松倉堰に住みかを求めて流れ着いた縁起ものとして、同じ水神の水波女神社に設置された」とのことでした。

文字:円満造翁の彫刻説明

写真:高梨神社の神殿写真:高梨神社神殿の彫り物 

現在、松倉堰の受益地では、「大浦沼地区」122haと「神岡西部地区」223haの「ほ場整備事業」も行われており、今年度で事業計画全面積の区画整理工を終えます。
 これにより松倉堰掛かりの水田整備率(30a区画以上)は約70%となります。水利施設や土地基盤整備事業を契機に大規模土地利用型の法人も設立され、農家と施設を管理する松倉堰土地改良区、大仙市など関係機関が一体となって持続的な食料生産と複合化、6次産業化による地域農業農村の活性化に頑張っているところです。
 松倉堰は、水神の水波女命・おいり・龍に見守られ、地域住民の安心な暮らしにかけがえのない財産となっています。

地図:松倉幹線用水路