芦名沢の観音様(鹿角の伝説)

2014年03月10日 | コンテンツ番号 322

芦名沢(あしなざわ)の観音様

 昔、奈良時代のころ、鹿角に孫七長者という長者が住んでいた。その長者には、1人のあと取り息子がいた。

 また、砂沢(現在の山根地区)には、成田市兵衛という豪族が住んでいて、その豪族には、たいへん美しい1人の姫がいた。

 この長者の息子と豪族の姫は、いつしかお互いに恋し合うようになり、夫婦になって一緒に暮らしたいと思うようになっていた。ところが、この長者と豪族は、昔から何かあるとけんかばかりしていたので、この息子と姫の結婚はお互いの親に許されてもらえなかった。

 姫は長者の息子への恋しさのあまり病気になり、床に伏すようになった。息子は、姫の病気を風のたよりに聞き、見舞いに行ってやりたいと思ったが、親達の不仲を考えると、自分たちの恋はかなえられないものと嘆き悲しみながら日々を暮らしていた。

 ある晩、病気の姫にどうにかして一目会いたいと思った長者の息子が豪族の館の回りを歩いていると、豪族の家来たちに、「あやしいくせ者だ」と取り囲まれ、捕まえられてしまった。次の日、豪族の家では、「昨夜、くせ者が現れ、病気の姫が殺されてしまった。そのため、そのくせ者を捕らえて打ち首にした。」と言いふらし、急いで姫の葬式を出してしまった。

 ところが、豪族の家では、捕らえた長者の息子と姫を夫婦として一緒にさせるため、その夜のうちに遠くへ旅立たせていたのであった、そして、2人の身代わりとして馬2頭を荒むしろにつつみ、生き埋めにして2つの墓を建てた。 

 孫七長者は、捕らえられて打ち首にされた人物が自分の息子であることを知ったが、相手は豪族のためどうすることもできず、毎日息子のことを思っては、寂しく暮らしていった。

 夫婦となった二人は、旅から旅へと諸国を2人で楽しく巡り歩いていたが、旅の途中で長者の息子が不幸にも病気になり死んでしまった。残された姫は、嘆き悲しみ、夫の葬式を済ませた後、故郷の砂沢に帰ってきた。

 故郷へ帰った姫は、自分たち夫婦の身代わりとなった2頭の馬の事を聞き、哀れと思い、埋められた森のほとりにお寺を立てた。そして毎日、念仏を唱え、亡くなった夫と罪もなく殺された馬の供養をした。姫はその後、亡くなるときに、「わたしの死後、このお寺で供養してくれた人には、良い馬をたくさん授け、幸せな暮らしができるようにしてやりたいと思います。」と言い残していた。

 一方、孫七長者は、月日の経つにつれて、これまでの経過を知り、今までの怒りも忘れ、息子や2人の身代わりに埋められた馬の菩提を拝みながら暮らした。そして、長者は、はるばる都へ行き、十一面観世音菩薩像(じゅういちめんかんせおんぼさつぞう)を申し受けて帰ってきて、お堂を建て、朝夕に一生懸命拝んだ。

 後に、このお堂は金光明寺(こんこうみょうじ)十一面観世音堂と言われ、遠くからも人々が集まってくるようになった。

 また、平安時代の有名なお坊さんである滋覚大師(じかくたいし)という人が立ち寄り、観世音の仏像を彫って奉納し、“陸奥(みちのく)をかきわけゆけば芦名寺の栄うためしに法(のり)の華山(はなやま)”という歌を詠んだ。

 こうして、このお堂へ拝みに来る人はしだいに増え、お祭りはたくさんの人でにぎやかになった。

 人々はこのお堂に馬を連れて集まり、たくさんの良い馬が授かるようにと「絵馬」を奉納した。このお堂には、今も、こうした絵馬がたくさん昔のまま残っている。

 このお堂の近くには、慈覚大師が仏像を彫るときに入ったという岩穴や、身を清めるために水ごりを取ったときに着物を掛けた“衣掛け”という大きな岩が今でも残っている。