ダンブリ長者伝説(鹿角の伝説)

2009年12月15日 | コンテンツ番号 305

ダンブリ長者物語

 昔、小豆沢(あずきざわ:現在の鹿角市八幡平小豆沢)の根本というところに一人の若者が年老いた父親と暮らしていた。若者は、正直者で村でも評判の働き者であったが、いつも貧乏暮らしをしていた。ある日、若者はいつものように薪を取るために山へ出かけていた。
 また、そのころ、比内の独鈷(とっこ)という村(現在の比内町独鈷)にひとりの娘が住んでいた。その娘はやさしくとても親孝行であったが、両親は数年前に亡くなり、毎日悲しみをこらえながら暮らしていた。

 ある晩のこと、娘は夢を見て、白髪の老人から、「これからすぐに家の前の小川を下りなさい。そして、大きな川にぶつかったら川上の方向へ進んで行きなさい。日が暮れるころ一人の若者と出会うだろう。その若者は働き者で人の倍も良く働く若者である。その若者と夫婦になるがよい。」と言われた。
 夢から覚めると、娘は神様のお告げだと思い、翌朝早く、住み慣れた家を出てお告げの通りの方向へ川を進んでいった。日が暮れるころ、小豆沢にたどり着き、娘が道に迷って山道へ入っていくと、木を切っている一人の若者を発見した。若者の働きぶりは、木を1本切ると2本倒れ、2本切ると4本倒れ、3本切ると6本倒れるほどであった。娘はこの人が神様に告げられた人だと思い、この若者に夢でのお告げの内容をすべて話して聞かせた。この話を聞いた若者は娘を家に連れて帰り、父親にそのことを話して相談すると、父親も喜んで賛成してくれたので、二人は夫婦になることにした。
 父親と若夫婦は、まじめに働き、仲良く暮らしていたけれども、正直すぎるせいか貧乏生活が続いていた。

 ある年、正月だというのに神様にお供えする餅や酒が無く、一家は、「ああ、なさけない。正月だというのに神様へのお供え物一つできない。」と、ため息をつき悲しんだ。
 その晩、若者の夢の中に白髪の老人が現れ、「われは大日神(だいにちしん)である。ここはお前たちの住む場所ではない。ここから川上に進んで行くと広い場所があるので、そこに住むがよい。その場所では、数多くの田や畑を耕して長者になることができるだろう。ここを早く立ち去るがよい。」と告げた。若者は、はっと目をさまし、そばに寝ている妻を起こして今見た夢の内容を話すと、その妻も同じ夢を見ていたとのことであった。二人は、神様に感謝するため、祭壇を作りわずかばかしのお供えをした。

 早速、翌日の正月2日、父親と若夫婦は三人で、村の人たちに別れを惜しまれながら、川上の方へ旅立った。日が暮れたころ、お告げのとおりの広い場所にたどり着いた。そこは田山(現在の岩手県安代町田山)の奥の平間田という村であり、三人は村長から村に住む許可を得て、この村で暮らすことにした。村では、最初はクズやワラビなどの根を掘って食べて暮らしていたが、しだいに田や畑を切り開いていった。

 ある夏の暑い日のこと。畑で働いていた2人は木陰で昼休みをしていた。若者が暑さと疲れで、うとうと寝ていた時、少し離れた岩の陰からダンブリ(トンボ)が飛んで来るなり、尾を若者の唇につけてまた向こうの岩の陰へ飛んで行き、また飛んで来ては尾をつけるというように、同じ行動を2度も3度も繰り返した。妻は不思議な行動だと思いながら、そばで黙ってそのダンブリの様子を見ていた。
 そのうちに、若者が目を覚まし、「ああ、俺は今、これまで飲んだこともないとても美味しい酒を飲んでいた。おまえにも飲ませたいなあと思っているうちに夢がさめてしまったが、今でも、その味が口の中に残っているよ。」と唇を舌で舐めながら話した。妻は、「あなたが眠っていたとき、何度も向こうの岩の陰からダンブリが飛んで来てはあなたの口にしっぽをつけていましたよ。」と、これまでの様子を話して聞かせた。

 不思議なこともあるものだと思い、2人でダンブリが飛んで行った方へ行って見ると、岩の間から香りのよい泉がこんこんと湧いていた。泉の水を手に汲んで飲んでみると、それは、ほんとうにおいしいお酒であった。この酒は、飲むとたちまち元気が出てくる酒であり、この酒を飲んだ人はどのような病気もすぐに直り、長生きできるほどの酒であった。2人は、そこに家を建てて住むことにした。
この宝の泉の話は、四方八方に広まり、この水を求めて人々がしだいに集まってくるようになった。そして2人は、宝の泉のおかげで、金や銀、宝石がたくさん集まり、たちまち国一番の長者になった。
 2人はその後、大きな屋敷を建ててたくさんの人々を迎え入れた。そして、その多くの人々が食べる米の白いとぎ汁が川下まで白く流れていくようになり、その川は後に米白川(米代川)と言われるようになったとの伝説もある。

 2人は、どんな望みもかなえられるほどの長者になったが、40歳を過ぎても子供に恵まれなかったため、子供が授かるよう、毎日毎日、大日(だいにち)の神様を拝んだ。ある時、その願いが通じたのか、女の子が授けられた。
 その子は、しだいに賢く可愛らしい娘となり、秀子(のちの吉祥姫(きっしょうひめ))と呼ばれ、皆にかわいがられて大事に育てられた。
 大金持ちになった2人は、みんなにダンブリ長者と呼ばれるようになっていたが、そのころ、長者を名乗るには、天皇の許しがないといけなかった。

 そこで、都に上って天皇にお願いすると、「長者というものは、世の中すべての宝物を持っていなければならない。第一の宝は子供であるが、お前には子供がいるか。」とお言葉があった。2人は「女の子が1人おります。都を見せたいと思い連れてまいっております。」と答え、娘を天皇に会わせた。秀子はとても美しい女性であったため、天皇に気に入られ、宮中につかえることになった。長者夫婦は、本当の長者を名乗る許しを得たうえに、たくさんのほうびをもらい、喜んで故郷に帰った。都に残った秀子は、吉祥姫と名前を変え、後に天皇(継体天皇)のお后になり幸せに暮らした。

 月日も経ち、長者夫婦が年老いて亡くなると、しだいに、宝の泉もただの水となり、その場所に数多く住んでいた人々もいなくなってしまった。
 吉祥姫は都でそのことを聞いて、悲しみ、天皇に、「私の父と母は、夢に現れた大日神のお導きで、長者の位までいただけました。そのいわれを、ぜひ後の世まで伝えたいと存じます。」とお願いした。天皇は「神は国の守りである。長者が尊んでいた大日神の神社を、長者の故郷に建てるとよい。」と言い、使いの者を故郷の小豆沢へ派遣し、大日堂(大日霊貴(おおひるめむち)神社)を建てさせた。

 そして、大日堂のお祭り(ザイドウ)が毎年正月2日に行われるようになった。これは、長者夫婦が夢の中で神様のお告げを受けて、運が開けるようになったのが正月2日だったことからである。都からは、踊りや笛、太鼓を教える人が大勢来て、大里、小豆沢、長峰、谷内の四地区の人たちが祭りの時に、舞を納めるようになった。これが現在では国指定の重要無形文化財となっている「大日堂舞楽」の始まりと伝えられている。
 年月も過ぎ、吉祥姫が亡くなると、吉祥姫の遺言どおり、故郷の大日堂のそばに吉祥姫の墓が建てられた。そばにはイチョウの木が植えられ、吉祥院というお寺も建てられた。